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通貨が壊れるとき(アルゼンチン・ペソ編)

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通貨が壊れるとき(アルゼンチン・ペソ編)

20世紀の初頭は豊かだったアルゼンチン

アルゼンチンは20世紀の初頭、世界有数の農業物、畜産物の輸出国で南米でもっとも豊かな国だった。二度の大戦にも関与せず、戦時中も非常に高い経済成長率を記録していたという。

1940年代半ば 産業構造の転換を図るも失敗

1940年代半ばにペロン大統領(妻は「エビータ」で有名なエバ・ペロン)が就任してからは大戦中に貯まった外貨を使って工業を振興し、産業構造の転換を図ったがうまく行かなかった。この辺りからアルゼンチンの凋落がはじまる。

さらにペロンは労働者保護に力を入れていたためにアルゼンチンはのちに外国にとって投資のしにくい体質を持つようにもなる

1960年代以降500%のインフレを経験

1960年代以降は政変やクーデターが相次ぎ、イギリスとの間にフォークランド紛争が起こるなど混乱が続く中安易なバラマキ政策などをおこなっていたために1988から1989年には500%のインフレーションを経験する

1990年前半 レートを固定し景気回復

その後、親米を掲げたメネム政権がインフレ克服のために1ドル=1ペソというドルベッグ制(自国通貨とドルのレートを固定すること)を導入。

ドルに対しての為替変動がないという安心感により、海外からの投資が活性化して1990年代前半には景気が急回復した

1990年後半 隣国ブラジルで経済危機発生

アルゼンチンの人々は自国通貨のペソ高を背景に輸入品の消費にいそしみ、内需が急拡大した。ところが自国通貨が高いということは国内の輸出が伸びないということ。

輸出が激減して、輸入が激増。貿易収支が急速に悪化することになる。実際はたいして稼いでいない。つまり経済的実力はそれほどでもないにも関わらず、ドルペッグによって自国通貨は無理やり高く留め置かれた状態。

この辺りで経済に強いビジネスマンたちが将来のペソ下落を見越して、自分の資産をドルに両替して海外に逃がす、いわゆるキャピタルフライトが発生。

当時のアルゼンチンの兌換法ではペソとドルの両替を保証していたため、ドルペッグを支える外貨準備がどんどん流出してゆく事態となる。そんな中、追い打ちをかけるように隣の大国ブラジルで経済危機が発生。

危機対応のためブラジルは通貨を切り下げ、変動相場制に移行してしまった当時、アルゼンチンの輸出先の30%を占めていたブラジルの通貨切り下げで貿易収支がさらに悪化するという悪循環に陥ってしまった

ここでアルゼンチンもドルペッグを放棄して変動相場制に移行していれば良かった。自国通貨が下がって輸入品は手に入らなくなるかもしれないが、外貨を取り戻す輸出産業は息を吹き返すはずだった。

ところがアルゼンチン政府はそうはしなかった。


変動相場制に移行しなかったアルゼンチン その理由

その大きな理由に内需が旺盛だった時代に国民が組んだ住宅ローンなどの融資の80%がドル建てでおこなわれていたということがある。

ローン会社もペソの先行きを懸念していたということか、安心なドル建てのローンの金利をペソ建てのローンの金利より低めに設定してさえいた。

この状態で1ドル=2ペソなどへ通貨の切り下げをおこなったら、多くの人の借金が倍になってしまうことになる。政権など一瞬のうちにひっくり返ってしまう。

また、海外の投資家たちも1ドル=1ペソを前提に投資をしていたのでこちらからも大反対が起こった。

身動きのできないまま景気が悪化

身動きのできないまま景気は悪化、外貨の国外への流出は加速する。膨大な貿易赤字と財政赤字に苦しむ政府はIMFの融資を受けて難局を打開しようとする。

が、その融資の条件である財政の均衡を図るために大幅に支出を減らす緊縮財政を実行すると、行政サービスの削減、生活レベルが下がることに怒った労働者たちがゼネラルストライキを敢行した。

ペロン政権が基盤を作った強い労働組合がここで負の作用を及ぼす。

国債の暴落でアルゼンチン政府は預金封鎖に踏み切る

国民が財政再建に非協力的と見たマーケットがついにアルゼンチンを見限り、国債の暴落が起こった。ペソの崩壊を感じ取った人々は少しでも自分のペソをモノに変えておこうと銀行へ殺到し、取り付け騒ぎが発生。

事態を重く見たアルゼンチン政府は預金封鎖に踏み切り、国民が1週間に引き出せる預金の額を250ドルに制限した

2001年末 IMFの融資は実現せず債務不履行を宣言

一方で外資系金融機関は規制が追いついていなかった間隙を突いて150億ドルという資金をアルゼンチンから引き上げてしまう。

資金難に陥り、対外債務の利払いに窮したアルゼンチン政府はIMFに融資を要請するも、その条件となっていた緊縮予算案が議会を通らなかったため、結局IMFの融資は実現せず

2001年12月24日、アルゼンチン政府は1,320億ドルの対外債務の支払いを一時停止すると発表。すなわち「債務不履行(デフォルト)」を宣言をした。


2002年 ようやく変動相場制へ

2002年2月、アルゼンチン政府はついに米ドルとペソの兌換の保証を放棄して、変動相場制に移行。ペソは急落した。2003年までには1ドル=3ペソに減価。

ここにきてアルゼンチン政府はようやく預金の凍結を解除する。このとき外貨の流出により国内のドル資産が激減したため、ほとんどドル建てでされていた国民の預金は強制的にペソに変換されて払い戻された。

それも実勢レートは1ドル=3ペソ程度にも関わらず、1ドル=2ペソで払い出され、差額は強制的に長期国債に換えられたという。3倍にはね上がった輸入品の価格。

急激なインフレと景気の悪化により失業率は20%を超え、アルゼンチンの中流階級は軒並み貧困層に身を落としてしまった。(執筆者:玉利 将彦)

《玉利 将彦》
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玉利 将彦

玉利 将彦

Borderless Works Co.,Ltd. 代表 日本企業の海外駐在員として9年にわたる上海・香港勤務を経て2005年から現職。駐在員時代から17年に及び上海・香港を拠点におこなってきた金融や不動産投資の知識・経験を生かし、ファイナンシャル・アドバイザー(FA)として活動。 香港における投資助言業(SFC)と保険代理業(PIBA)の免許を保有するエキスパートとして顧客のライフプランに即した投資計画の立案、資産運用商品・保険の仲介、海外金融機関の口座開設・運営のサポートをおこなっている。 寄稿者にメッセージを送る

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