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江戸時代の税金は「米」が主流。
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江戸時代は、幕府領・旗本領・藩領・寺社領などに分かれており、税の種類や税率はそれぞれ異なっていました。
江戸時代の税は、大きく年貢(=本年貢、本途物成)と諸役(小物成・高掛物・夫役・国役など)に分かれます。
人口の85%を占める農民が主な納税者(米を現物納付)で、町人は「国や地域のために労働」することが税金代わりになっていた一面もあります。
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ただし、実際の税率は新井白石の時(1709年から1716年)で28%、徳川吉宗の時(1716年から1745年)で35%ほどだったとのこと。
・小物成(こものなり)…土地の特産物(田畑以外)にかかる税。
・夫役(ぶやく)…農民が負担する小物成の一種。
・高掛物(こうがかりもの)…村高(=村の石高)や持高(=百姓が耕作する土地の石高)にかかった税。
・上納金 …臨時の事業や財政の穴埋めのために賦課される。
・国役(こくえき)…藩から命令された土木工事に参加する。
・村役(そんえき)…村のための土木工事に参加する。
・助郷役(すけごうえき)…荷物運びなど宿場の応援。
商工業者には運上金・冥加金が課税される。
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江戸時代における商工業者に対しての営業税のような税です。
「運上金」、「冥加金」といい、特定の仕事に課税されました。
運上金には、市場運上、問屋運上、紙漉(かみすき)運上、諸座運上があり、一定の税率を定めて納めさせました。
冥加とは神仏によって与えられた加護をいい、営業を許可された商工業者から収益の一部を献金などで上納させるのが冥加金です。
醤油屋冥加、質屋冥加、旅籠屋(はたごや)冥加がありました。
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検地で米の収穫高が定められた。
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検地とは、
領主が自分の領地に対して行った土地調査です。
検地の方法は、領主または時代によって異なっていました。
検地は、全国的には、元禄時代まで行われ、村の土地の基本的な石高を確定するのに役立ちました。
検地を行うために、検地役人が村に来た時には、村の有力な百姓が案内人として村の中を案内したそうです。
検地の時には、土地の種類・広さ・収穫高と土地の耕作者が調査され、その結果は検地帳に記録され、登録された耕作者は、土地の耕作権を認められる代わりに税を負担する義務がありました。
また、検地によって定められた土地の石高(米の収穫高)は、これ以後、年貢や諸役などを課税する時の基準になりました。
江戸幕府初期は、毎年の収穫量を実際に見てから、年貢量を決める検見(けみ)法でしたが、8代将軍徳川吉宗(1716年から1745年)の時に、過去何年かの収穫率の平均から、年貢率を決める定免(じょうめん)法になりました。
幕府の財政は好転しましたが、農民は豊作でも凶作でも毎年一定の年貢を納めることになり、農民にとっては実質的に増税になりました。
江戸時代では、個人に所得税をかけなかった。
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現代では、国や地方に雇われている(税金から給与をもらっている)公務員は、もちろんお給料から所得税や住民税を引かれ、公務員自らも税金を支払っています。
でも江戸時代では、個人に所得税をかけるしくみはありませんでした。
明治になってから個人に所得税がかかるようになりました。
江戸時代では主に税金(主に米)を納めるのは、検地帳に登録された田畑の持ち主なので、小作人は税(米)を納めませんでした。
商店主なら、商店から営業税や上納金のような税を支払っていたのです。
ちなみに、長屋住まいの人々などは、家賃を支払い、その日を暮らすのに精一杯で、やはり税金(米)は支払っていなかったそうです。
貯め込んでいる商人に武士が借金も。
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商人は商業上の税金(運上金・冥加金など)を払うことはあったが、儲かっても商人個人の税金(所得税)は支払う制度がなかったので、貯め込んでいる商人は貯め込んでいました。
武士も町人も「格付け」があり、特に武士は参勤交代の仕方や武士が身分(体面)を守るための出費でお金が足りなくなった場合、用立てていたのは商人でした。
江戸後期には、商人が武士の身分をお金で買うことができることもあったとか。
借金を棒引きにする変わりに、武士の身分をほしがった商人も多かったとのことです。
武士の借金帳消しの法律もできたことがありました。
旗本・御家人の札差(幕府の米蔵から扶持米を受取り換金した商人)からの借金を減らす「棄捐令」(きえんれい 1789年松平定信による)、1841年に天保の改革として特権商人を抑制するための政策「株仲間の解散等」などが行われました。
江戸時代は、農民が主な納税者
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江戸幕末の頃の日本の総人口は、約3,200万人といわれていますが、そのうち85%が農民、武士は7%、町人5%、公家・僧侶等1.5%、えた・ひにん1.5%だったとのことで、大多数を占める農民から米を取り立てるのが一番確実な税金だったのでしょう。
江戸幕府の初期には、予算書や決算書をつける習慣自体なかったようですが、徳川吉宗が享保の改革を行う時には、決算書をつけたそうです。
その決算書によると、江戸幕府の収入は、
1730(享保15)年(吉宗時代)
◎歳入が79.9万両
・年貢: 63.7%
・運上金と御用金(御用商人から臨時に募集した金銭)、上米(江戸幕府が諸藩に対し,また藩が家臣に対して上納させた米)等合計: 10%強
・国益金納、小普請金(小規模造営工事費用の上納金): 6.5%
・その他: 18%(上納金?)
◎歳出は73.1万両
・切米(知行地を持たない武士に支給された米)、約料(役付者に与えられた米): 40%
・役所経費: 20%
・米買い上げ: 約14%
・奥向き費用(大奥?): 8.3%
・その他: 16.4%
だそうです。
843(天保14)年(家斉時代)になると、
◎幕府の歳入は154.3万両
・年貢: 39%
・御用金、上納手伝金: 10%強
・貨幣改餞益金: 1/4
・国役金、小普請金: 約3%
・その他: 2割弱
と年貢の割合が下がります。
◎歳出は144.5万両
・切米、約料: 28%
・役所経費: 23.3%
・米買い上げ等: 6.7%
・奥向き費用(大奥?): 6.4%
・日光参詣費用: 7%
・その他: 28.6%
だそうです。
江戸幕府の収入のなかの「貨幣改餞益金」とは、元々ある金貨・銀貨を回収して含まれている金や銀の量を減らし、新金貨・新銀貨として発行して、減らした金銀を幕府の収益とすることです。
本物の収入とは言えず、ごまかして帳尻を合わせていたとも言えます。
江戸時代最大の社会保障「住み込み」
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ところで、江戸時代には、健康保険(大正11年より)や厚生年金(昭和16年4月より)、雇用保険(昭和22年より)なんてもちろんありません。
国が医療や年金、失業に関しては自己責任で各自に任せていた代わりに、雇い人を持つ武士や家族以外の人を使って営業している商店は雇い人を「住み込み」させて衣食住を保障してあげていました。
多くの武士は国から配られた給与(主に米による石高)の中から、住み込みさせている部下のご飯や寝る場所を提供したのです。
人口の10%もいなかったと言われる武士とその家族ですが、給与(主に米による石高)は職務内容より生まれついての身分によって決まっていました。
従って身分を守るために給与(主に米による石高)の割に出費が多かったといわれています。
武士の「家格」を守るための冠婚葬祭など交際費用等の出費や、参勤交代で馬代など交通費、「1年(吉宗時代から6ヶ月)」の滞在費や人件費がかかったそうです。
赤字家計もざらにあったようです。
ただし、武士は決まりや秩序を守っていれば、住むところと身分と給与(主に米による石高)を幕府に保証されていました。
江戸時代には、所得税の制度がないので各領主は税金(米?)を幕府に支払っていなかったようですが、江戸幕府や国の状況(災害等)により上納金や上納米、国役等はあったようです。
大飢饉の時も、武士からは餓死者が出なかったそうで、その点は恵まれていました。
江戸時代の武士にとっての領地とは、知行地を与えられても土地に住むわけでもなく、一度も与えられた土地を見ることなく一生を終える武士も多かったとのことです。
武士は、城下町に屋敷を持ち、そこに常駐することが必要で、湯治や遊学など移動するときは、藩庁の許しが必要だったそうです。
領主は意外と力が弱かったらしいのです。
だから、明治維新では武士の領主権を簡単に廃止できたというのです。
物乞いが多かった? 江戸時代。
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江戸時代の価値が見直されてはいますが、やはり当たり前ですが、現在よりは物がなくお金の価値が当てにならない、また、お天気による米の収穫や変動する米の価格で生活が大きく異なり、病気や失業でも、生活保護や社会保険などセーフティーネットのない時代でした。
健康保険がないから、医者にかかるのは値段も高く、医者も無免許が多かったといいます。
乳幼児の死亡率も高く、栄養状態や医療状態の良かったはずの徳川将軍の子供ですら、20歳までに死亡した子供も多かったとのこと、およそ現代では考えられません。
12、13歳で親元を離れ、商家に奉公に行く子供が多かったのも、親元では「食い扶持が減り、子供が将来手に職をつけられる。」、商家も「子供にしばらくただで働いてもらえる。」(元服までの間)から引き取ったので、奉公に来た子供に対し、良心的だったかどうかは、商家の主人一家の人柄により異なりました。
貧しい農家では10歳くらいの娘を吉原等の遊郭に売り、親が米や金銭等を受け取ることも良くあったとのことです。
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現代では親が逮捕ものですが、江戸時代では親も口利きした人も娘を買い取った遊郭も逮捕されることはありませんでした。
体を壊して働けなくなったり、子供達に先立たれて年を取ったり、奉公先の商家をやめてしまったり、お家取り潰しにあい武士が浪人になったりすると、物乞いになってしまう人も多かったらしく、山東京伝が描いた絵にも元武士(浪人)と思しき物乞いが記してあります。
オランダ人シーボルトも「江戸は貧富の差が大きいところ」と自著に書いていたそうです。
1781から1789(天明)年間の東北の冷害による大飢饉では、約20万人もの人が餓死したそうです。
現在は、台風が立て続けに来て農業に支障があっても、野菜が大きく値上がりするくらいですし、他にも食べ物がある状態です。
餓死も悲しいことに少しはあるけれど、ほとんどありませんよね。
やはり「現代人で良かった」…と江戸時代を調べながら、胸をなでおろした筆者でした。
※参考
国税庁 江戸時代の税
江戸時代の格付けがわかる本 大石学著
武士の家計簿 磯田道史著
江戸幕府財政の研究 飯島千秋著
(執筆者:社会保険労務士 拝野 洋子)